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94年Nさん宅のお兄さんの結婚式 99年Nさん宅の妹さんの結婚式 1994年春、頼まれ結婚式を撮影。ご本人および新郎新婦それぞれの親用にと3冊のアルバムを編集、手渡す。 94年10月、難病(後縦靱帯骨化症)の症状を緩和するため1回目の手術。 95年1月、2回目の手術。 95年1月、阪神大震災 95年2月、3回目の手術。難病により、手術後も両上肢に障害がのこる。 心と体をカバーするためにリハビリを兼ねての写真撮影。 その後、一冊のアルバムに巡り会う。 94年の新郎の妹さんから、結婚式の撮影依頼される。 「兄のアルバムを見て、私も撮ってもらいたい」と、そのとき妹さんは思われた。 しかし、障害者の三四郎にはとても結婚式の写真を頼まれる状態ではなく、 「残念ですがお断りします、以前のようには撮れませんから。」と返答。 震災の日、「母はこれだけはと、全壊し崩れ落ちた家から兄のアルバムを取り出したんです。」 「私もそんなアルバムがほしい。」 ご両親が数日後、アルバムを持って訪ねてこられる。 撮影を受けるしかないと心に誓う。 問題はやまずみ、残り時間は後9ヶ月。 カメラを身にあったものにするために長年、使い込んだ愛機を下取りに、ほかの道具もすべて改造・買い換え。 当日の撮影は一人では無理なので、撮影のサポーター役一名と共に、友人にモデル役をお願いしてフイルム100本以上使用しての撮影練習。 そして、サポーターとともに当日を迎える。 以前と同じように、アルバムをご本人・および新郎新婦それぞれの親用に3冊のアルバムを編集、手渡しました。 あの日、母親は命をかけても・・・。 たかが「写真」・たかが「思い出」。 きっと、お母さんには「アルバムには我が子の成長と思い出が写し込まれている」と思えるのでしょう。 私は何をムキになり、挑んだのか。 ”こののちもチャレンジし、為すべきことをおこなう” ”なんで、自分だけが・・・この言葉を口にしません” ”なれへんかったら、なるようにする” kumano3taの思い 黒田三四郎 自己紹介 |