トップ アイコン ←トップページ
直線上に配置
加筆更新:2009/10/ 1

                                                     
”kumano3taが綺麗な写真を撮るのは当たり前”

昔からkumano3taを知る人のこれが「評」

カメラを始めて数年後、勤務先のイベント写真を撮るようになっていました。
そのご、会社の公式行事の写真撮影も引き受けるように。
会社の「20年史」にもかなり掲載されている。。。^^;

でも、障害者となったそののちもカメラは捨てなかった。

2006年ごろから、イベント写真を撮る機会が増えてきた。その頃は、イベントの記録として。
当時の活動地域ではカメラを長年趣味にしているとは誰も知らなかった。
イベントでは、音響・舞台進行そして記録写真等々もろもの役目を引き受けていた。

地域でkumano3taの写真に注目を受けるようになったのは、
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
フォトギャラリーNo.15 (CLOSE)
素のままフェスタ2008 2008/3/8
障害をもつひとともたないひとが共に舞台をつくる
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
イベントの記録としてではなく、カメラマンとしての撮影を、HPに発表してから。

イベントなど集団の人々を撮影するときkumano3taは、みんなが「主役」と思って撮影。
・・・これが大変なことになります。。。^^;

この後、イベントなど集団の人々の撮影に本格的の取り組み、一脚および三脚におぶさる、
ぶら下がるようにする撮影方法の省エネ撮影を行うことができるようになった。
<一年の時間と10万円程度の費用をかけカメラと周辺機器(レンズ、三脚などなど)の調整>

そして、「舞台に上がっている人にとってカメラマンは邪魔か?観客にとってカメラマンは邪魔か?」
はっきり言って、邪魔者。
写真をただ撮っているだけでは、邪魔者のなにものでもない、
写真は他人・人に見てもらってなんぼのもの、始めて価値がでるものと思っている、考えている。
最近、イベントで撮影したみなさんにも見てもらうためにPRを開始し、みなさんに楽しんでもらいたい。

                           
kumano3taの誓い   黒田三四郎 自己紹介

    199406 兄の結婚式     1999/9 妹の結婚式
  94年Nさん宅のお兄さんの結婚式  99年Nさん宅の妹さんの結婚式

1994年春、頼まれ結婚式を撮影。ご本人および新郎新婦それぞれの親用にと3冊のアルバムを編集、手渡す。

94年10月、難病(後縦靱帯骨化症)の症状を緩和するため1回目の手術。
95年1月、2回目の手術。
95年1月、阪神大震災
95年2月、3回目の手術。難病により、手術後も両上肢に障害がのこる。
心と体をカバーするためにリハビリを兼ねての写真撮影。

その後、一冊のアルバムに巡り会う。

94年の新郎の妹さんから、結婚式の撮影依頼される。
「兄のアルバムを見て、私も撮ってもらいたい」と、そのとき妹さんは思われた。

しかし、障害者の三四郎にはとても結婚式の写真を頼まれる状態ではなく、
「残念ですがお断りします、以前のようには撮れませんから。」と返答。
震災の日、「母はこれだけはと、全壊し崩れ落ちた家から兄のアルバムを取り出したんです。」
「私もそんなアルバムがほしい。」
ご両親が数日後、アルバムを持って訪ねてこられる。

撮影を受けるしかないと心に誓う。
問題はやまずみ、残り時間は後9ヶ月。

カメラを身にあったものにするために長年、使い込んだ愛機を下取りに、ほかの道具もすべて改造・買い換え。

当日の撮影は一人では無理なので、撮影のサポーター役一名と共に、友人にモデル役をお願いしてフイルム100本以上使用しての撮影練習。
そして、サポーターとともに当日を迎える。
以前と同じように、アルバムをご本人・および新郎新婦それぞれの親用に3冊のアルバムを編集、手渡しました。

あの日、母親は命をかけても・・・。
たかが「写真」・たかが「思い出」。
きっと、お母さんには「アルバムには我が子の成長と思い出が写し込まれている」と思えるのでしょう。

私は何をムキになり、挑んだのか。
”こののちもチャレンジし、為すべきことをおこなう”
   ”なんで、自分だけが・・・この言葉を口にしません”
       ”なれへんかったら、なるようにする”

                           
kumano3taの思い  黒田三四郎 自己紹介

三四郎・・・写真への誓い